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ウォルト・ディズニー・カンパニー(The Walt Disney Company)はアメリカ合衆国カリフォルニア州バーバンクに本社を置く、世界的なエンターテイメント企業。通称はディズニー。収益ではコムキャスト社に次いで世界で2番目に大きいメディア複合企業である。

1923年10月16日、ウォルト・ディズニーロイ・O・ディズニー兄弟によってディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ(Disney Brothers Cartoon Studio)という社名で設立された。アメリカのアニメーション産業の先駆者としての地位を確立したのち、実写映画、テレビ、テーマパークなど事業を幅広く展開していった。ウォルト・ディズニー・スタジオ(The Walt Disney Studio)やウォルト・ディズニー・プロダクション(Walt Disney Productions)という社名の変遷を経て、1986年に現在の名前となる。近年では従来の活動の拡大に加え、演劇やラジオ、音楽、出版、オンラインメディアを専門とした部門が新たに設立されている。

独自の映画スタジオであるウォルト・ディズニー・スタジオが制作した作品が特に有名で、現在ではアメリカ映画業界において最大かつもっとも有名な映画スタジオのひとつに数えられている。映画を除くと、ディズニーにはウォルト・ディズニー・パークス・アンド・リゾーツディズニー・メディア・ネットワークディズニー・コンシューマ・プロダクツ&インタラクティブ・メディアという3つの主要部署が存在する。またディズニーはTV放送局(ABC)やケーブル放送ネットワーク(ディズニー・チャンネル、ESPN、A&Eネットワークス、フリーフォーム)を所有・運営し、世界中で14のテーマパークのライセンスを持っている。ディズニーが初期に制作したキャラクター、ミッキーマウスは世界的に有名で、同社の公式マスコットになっている。

歴史

1919年~1928年 無声映画時代

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アリスの不思議の国

1923年の始め、ミズーリ州カンザス・シティにて、アニメーターのウォルト・ディズニーは『アリスの不思議の国』と題した短編フィルムを製作した。本作は子役のヴァージニア・デイヴィスがアニメキャラクターと共演する内容だった。それまで働いていたラフ=オ=グラム・スタジオが1923年に倒産したため、ウォルトは兄のロイ・O・ディズニーがいるハリウッドへ引っ越した。その後ディズニー兄弟は映画配給会社のマーガレット・J・ウィンクラーから連絡を受け、『アリスの不思議の国』をベースにした『アリス・コメディー』シリーズの制作プランを持ちかけられた。契約は成立し、ウォルトとロイはロサンゼルスに移ることになる。同年、兄弟はディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオを設立し、アリスの続編アニメを製作した。1926年1月、ハイペリオン・ストリートに社屋が完成した際、社名もウォルト・ディズニー・スタジオに変更された。

『アリス・コメディー』シリーズが終わった後、ディズニーは自身最初のキャラクターであるオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットが活躍する全編アニメ作品に取り組んだ。本作はユニバーサル・ピクチャーズを通し、ウィンクラー・ピクチャーズによって配給される。オズワルドの権利は配給会社にあったため、ディズニーの収入はわずか数百ドルであった。ディズニーはオズワルドを主人公に全26作品を制作したが、ウィンクラーの夫チャールズ・ミンツが配給会社を乗っ取った際、キャラクターを放棄することになった。ミンツはディズニー・スタジオの接収には失敗したが、アブ・アイワークスを除くディズニーの主要アニメーター4名を引き抜き、スナッピー・コメディーズという独自スタジオを立ち上げた。

1928年~1934年 ミッキーマウスとシリー・シンフォニー

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蒸気船ウィリー

1928年、カリフォルニア州へ向かう列車の中で、ディズニーはオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットの損失から立ち直るための新アイデア、「モーティマー」という名前のネズミの新キャラクターを思いついた。ディズニーの妻リリアンが“モーティマーマウス”という名前の響きを気に入らなかったことから、このネズミはのちにミッキーマウスと改名される。ミッキーを主役にしたディズニーの最初の音声つきアニメ『蒸気船ウィリー』は1928年11月18日に公開された。本作はミッキーマウスのデビュー作だが、制作順では『プレーン・クレイジー』と『ギャロッピン・ガウチョ』に継ぐ3作目だった。ミッキーの魅力に加え、世界最初の音声同期式アニメとして革新的だった『蒸気船ウィリー』は空前のヒット作となる。この時ディズニーは、パット・パワーズがリー・ド・フォレストのフォノフィルムを用いて製作したシネフォーン・システムを採用していた。『プレーン・クレイジー』と『ギャロッピング・ガウチョ』も音声トラックをつけて作り直され、1929年の再公開で成功を収めた。

ディズニーはミッキーマウスやその他のキャラクターを使ってアニメの制作を続け、1929年8月には配給会社のコロンビア映画と契約して『シリー・シンフォニー』シリーズを開始した。同年9月、劇場マネージャーのハリー・ウッディンはウォルトからミッキーマウス・クラブを開始する許可を取り付けた。同年12月16日、ウォルト・ディズニー・スタジオは有限会社ウォルト・ディズニー・プロダクションとして生まれ変わり、マーチャンダイズ部門としてウォルト・ディズニー・エンタープライズを設立、さらに2つの子会社を持った。

1932年、ディズニーは色付きアニメを制作するためテクニカラー社と契約し、同年に『花と木』をスタートする。この頃、ディズニーはセレブリティ・ピクチャーズ(1928年~1930年)、コロンビア映画(1930年~1932年)、ユナイテッド・アーティスツ(1932年~1937年)を通して作品を公開していた。ミッキーマウスとシリー・シンフォニーが人気を博したことにより、ディズニーは最初の長編アニメに取り組む機会を得た。

1934年~1945年 白雪姫と第2次世界大戦

Snow White Poster

白雪姫

アニメーションの枠組を拡大するため、ディズニーは1934年に最初の長編アニメ映画の生産を開始した。完成までに3年を要した『白雪姫』(原題:Snow White and the Seven Dwarfs)は1937年12月に初公開され、1939年時点で最高配給収入を挙げた映画となった。ディズニーはユナイテッド・アーティスツ社が将来の短編アニメのテレビ権利を手に入れようとしたため同社との契約を終えており、1937年にディズニー作品の配給権を獲得したRKOラジオ・ピクチャーズが『白雪姫』の興行を受け持った。

『白雪姫』の興行収入を元手に、ディズニーはカリフォルニア州バーバンクに51エーカー(210,000平方メートル)のスタジオを建設した。新設されたウォルト・ディズニー・スタジオは1939年に完成して操業開始し、現在もバーバンクのスタジオを拠点に活動している。翌年4月2日、ディズニーはウォルト・ディズニー・プロダクションとして株式を公開した。

ウォルト・ディズニー・スタジオはその後も『ピノキオ』(1940年)、『ファンタジア』(1940年)、『ダンボ』(1941年)、『バンビ』(1942年)といった短編・長編を製作した。しかし第2次世界大戦が始まると興行上の利益は下落した。真珠湾攻撃を受けてアメリカ合衆国が参戦に踏み切ると、ディズニーのアニメーターも多数軍隊に徴兵された。戦争中、ディズニーは米国やカナダ政府から軍人育成やプロパガンダを目的とした映像の制作を依頼される。1942年当時、ディズニーの550名の従業員のうち9割が戦争関連映画に取り組んでいた。『空軍力の勝利』や『死の教育』(ともに1943年)などの作品は戦争活動に対する世間の支持を煽るために作られた。当時はスタジオのキャラクターすらプロパガンダに利用され、ドナルドダックはアカデミー賞受賞作『総統の顔』(1943年)をはじめとする複数の短編に登場している。

1946年~1954年 戦後のアニメとTV番組制作

戦中・戦後はスタッフや予算が限られていたこともあり、1940年代に制作されたディズニーの長編映画のほとんどは「パッケージ映画」や短編の合作という形式を取った。この頃の作品に『三人の騎士』(1944年)や『メロディ・タイム』(1948年)があるが、興行成績は振るわなかった。同じ頃、スタジオは実写映画やドキュメンタリーの制作を開始する。アニメと実写が両方使われた『南の唄』(1946年)や『わが心にかくも愛しき』(1948年)、「トゥルー=ライフ・アドベンチャーズ」シリーズの『あざらしの島』(1948年)や『滅びゆく大草原』(1954年)が有名である。同シリーズの8作品がアカデミー賞に輝いている。

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ふしぎの国のアリス

1950年、『シンデレラ』の公開によって長編アニメがいまだ市場で成功し得ることが証明された。開戦以前に制作が始まった『ふしぎの国のアリス』や『ピーター・パン』、ディズニー初の全編実写映画である『宝島』もこの時期に公開された。初期の全編実写映画としては他に『The Story of Robin Hood and His Merrie Men』(1952年)、『The Story of Robin Hood and His Merrie Men』(1953年)、『海底二万哩』(1954年)などがある。ディズニーは1953年にRKOとの契約を終了し、独自の配給部門であるブエナ・ビスタ・ディストリビューションを立ち上げた。

1950年12月、ウォルト・ディズニー・プロダクションは初のTV進出となるNBCネットワークの特番『An Hour in Wonderland』のためにザ コカ・コーラ カンパニーと協力体制を取った。1954年10月、ABCネットワークはディズニー最初のレギュラーTVシリーズである『ディズニーランド』を開始する。本番組は歴代最長のゴールデンアワー番組シリーズとなった。『ディズニーランド』は新商品の紹介や旧作を放送するプラットフォームとしての役割も果たし、ABCはカリフォルニア州アナハイム近郊のオレンジ畑で始まるディズニーの新事業のパートナーとなる。

1955年~1965年 ディズニーランド

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ディズニーランド開園

1954年、ウォルト・ディズニーは親と子が同じ時間を楽しめる場所を作りたいという願いから、TV番組『ディズニーランド』でテーマパークのアイデアを発表した。1955年7月18日、ウォルト・ディズニーはディズニーランドを一般向けにオープンする。その前日にはアート・リンクレター(ラジオ・TVパーソナリティ)やロナルド・レーガンを招いた生放送による内覧が行われた。オープン当初はトラブルが多発したものの、ディズニーランドは国際的な成長を遂げ、世界中から訪問客を集めるテーマパークとなった。1959年にはディズニーランドにアメリカ最初のモノレール・システムが追加された。

1964年のニューヨーク万国博覧会に向け、ディズニーはそれぞれスポンサーが異なる4つのアトラクションの新設に向け準備を開始する。またこの頃、ウォルト・ディズニーは2つ目のディズニー・テーマパークの候補地にふさわしい場所を密かに探し始めていた。1965年11月、ディズニーはフロリダ州オーランド郊外に購入した何千エーカーという土地に、テーマパーク、ホテル、そしてモデル都市を1つにした「ディズニー・ワールド」を作ると発表する。

ディズニーは1950年代を通してテレビ事業に全力を注いだ。週日午後放送の子供向けテレビ番組『ミッキーマウス・クラブ』は1955年に放送開始して大きな成功を収め、『ディズニーランド』ショーの中で放送されたフェス・パーカー主演の『デヴィー・クロケット』ミニシリーズも好評を博した。2年後には『ゾロ』シリーズが人気となり、ABCで2シーズンにわたって放送された。しかし1960年代になると、ウォルト・ディズニー・プロダクションズは長期シリーズ(『The Wonderful World of Disney』と改題される)以外はテレビ事業への投資をほとんど行わなくなった。

この頃もディズニーの映画スタジオの活動は好調で、1年に平均して5本から6本の作品を順調に発表し続けた。短編作品の制作は1950年代~1960年代間に減少したが、ディズニー・スタジオは『わんわん物語』(1955年)、『眠れる森の美女』(1959年)、『101匹わんちゃん』(1961年)といった人気アニメ長編をいくつも発表した。一方ディズニーの実写作品は歴史フィクションの『Johnny Tremain』(1957年)、子供向け書籍の映像化作品『Pollyanna』(1960年)、現代コメディー『シャギー・ドッグ』(1959年)などさまざまなジャンルに広がった。1960年代にもっとも大きな成功を収めたディズニー作品は実写とアニメを織り交ぜたミュージカル映画『メリー・ポピンズ』である。本作は興行収入の最高記録を叩き出し、ジュリー・アンドリュースへの主演女優賞、シャーマン兄弟制作「チム・チム・チェリー」への作曲賞など、アカデミー賞5部門に輝いた。

1966年~1971年 創設者の他界とウォルト・ディズニー・ワールドの開園

1966年12月15日、ウォルト・ディズニーが肺がんの合併症で他界し、ロイ・O・ディズニーが会長、CEO、社長の役割を引き継いだ。ロイは亡き弟とそのヴィジョンを讃え、建設中のディズニー・ワールドを「ウォルト・ディズニー・ワールド」に改名した。

1967年、生前ウォルトがに積極的に監督業に取り組んでいた2作品、アニメ長編『ジャングル・ブック』とミュージカル『最高にしあわせ』が公開された。1960年代の後半、ディズニー・スタジオは多くのコメディー作品を世に送り出した。そのうち『ラブ・バッグ』は1969年の最高興行収益作品となり、同年の『テニス靴をはいたコンピューター』には俳優カート・ラッセルが子役として出演した。1970年代はディズニー最初の“ポスト=ウォルト”アニメ長編である『おしゃれキャット』で幕を開け、1971年にはファンタジージャンルのミュージカル『ベッドかざりとほうき』が公開された。『Blackbeard's Ghost』もこの頃の成功作品のひとつである。

1971年10月1日、ウォルト・ディズニー・ワールドが無事に開園し、ロイ・ディズニーは引退した。10月20日、ロイは頭蓋内出血で死去する。会社はウォルトやロイのもとで経験を積んだドン・テータムカード・ウォーカー、そしてウォルトの義理の息子ロン・ミラーらによって引き継がれた。

1972年~1984年 劇場作品の不調と新たなリーダーシップ

【編集中】

2005年以降 ボブ・アイガーの時代

2005年7月8日、ウォルト・ディズニーの甥であるロイ・E・ディズニーが投票権のない名誉取締役兼顧問として会社に復帰した。ウォルト・ディズニー・パーク&リゾートは7月17日にディズニーランドの50週年を迎え、9月12日には香港ディズニーランドをオープンした。ウォルト・ディズニー・フィーチャー・アニメーションは3Dアニメーションを用いたディズニー初の映画『チキン・リトル』を公開する。10月1日、ボブ・アイガーがアイズナーに代わってCEOに就任。ミラマックスの設立者であったボブハーヴェイ・ワインスタイン兄弟もディズニーを去り、独自のスタジオを設立した。2005年7月25日、ディズニーは設立17年を迎えるディズニートゥーン・スタジオ・オーストラリアを2006年10月をもって閉鎖することを発表した。

2006年、ディズニーはミッキー以前の無声映画時代の花形キャラクターであるオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットの権利を再入手する。ピクサーとの関係が希薄になっていると感じたアイガーは、ピクサー・アニメーション・スタジオの経営陣であるスティーヴ・ジョブズエドウィン・キャットマルらと合併に関する交渉を開始した。2006年1月23日、ディズニーは74億ドルでピクサーを買収することを発表した。取り引きは5月5日に完了し、ピクサーの50.1%の株を保有していたCEOのスティーブ・ジョブスはディズニーの個人筆頭株主兼役員となった。エド・キャットマルはピクサー・アニメーション・スタジオの社長になった。またピクサーの前副社長であるジョン・ラセターはウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ及びディズニートゥーン・スタジオ、ピクサー・アニメーション・スタジオのチーフ・クリエイティブ・オフィサーとなり、ウォルト・ディズニー・イマジニアリングのプリンシパル・クリエイティブ・アドバイザーも兼任することになった。

2007年、アイガーは部門のリブランド化に取り組み、マペッツ・ホールディング・カンパニーLCCはマペッツ・スタジオと名を改め、新しい経営陣が配置された。リブランディングは2008年9月に完了し、マペッツ・スタジオの運営はディズニー・コンシューマー・プロダクツからウォルト・ディズニー・スタジオへ移管された。

2009年12月16日、ロイ・E・ディズニー名誉取締役が胃がんで他界する。死亡当時、彼はディズニー全体の1%の株式を所有していた。彼は会社の経営に積極的に関わった最後のディズニー家の人物である。

2009年8月31日、ディズニーはマーベル・エンターテイメントを42.4億円で買収すると発表した。取り引きは同年12月31日に完了し、ディズニーはマーベルを完全子会社化した。

2009年10月、ディズニー・チャンネルの社長であったリッチ・ロスディック・クックに代わって会長に就任し、11月には家族向けの製品開発に重点を置いた企業の再編を開始する。2010年1月、ディズニーはタッチストーン・ピクチャーズを縮小化した後でミラマックスを閉鎖することに決めたが、その1ヶ月後にミラマックスのブランドと700作品をフィルムヤード・ホールディングスに売却し始めた。3月には、ディズニーがロバート・ゼメキスとの合弁事業として2007年に設立したイメージムーバーズ・デジタルも閉鎖された。2010年4月、ディズニーが保有するカントリー音楽のレーベル「Lyric Street」も閉鎖となり、翌月にはパワーレンジャー ブランドを売却、700エピソードがハイム・サバンに返還された。2011年1月、ディズニー・インタラクティブ・スタジオが縮小化され、11月にABCの2局が売却される。2010年の『塔の上のラプンツェル』公開に際し、エド・キャットマルは誰かが新しい発想を持ち込むまでのあいだ「王女様」ジャンルは一時中断するという旨の発言を行った。

2011年4月、ディズニーは上海ディズニーリゾートの建設を開始した(建設には44億ドルの資金が投入され、リゾートは2016年6月15日に開園する)。2011年8月、ボブ・アイガーはピクサーとマーベルの買収に成功したディズニーが今後も“素晴らしいキャラクターやストーリーを創造すべく、新しいキャラクターや企業の買収”を視野に入れているとコメントした。2012年2月、ディズニーはUTVソフトウェア・コミュニケーションズを買収し、インドやアジアに市場を拡大した。

2012年10月30日、ディズニーはルーカスフィルムを買収予定であること、2015年にスター・ウォーズの第7作が公開予定であることを発表した。2012年12月4日、ディズニーとルーカスフィルムの合併は連邦取引委員会によって承認され、独占禁止法に抵触することなく買収が行われることが確実となった。2012年12月21日、ディズニーはおよそ40.6億ドルで買収を完了し、ルーカスフィルムは完全子会社化された。(結果的にルーカスフィルムはかつて自身の一部門であったピクサーと同じ傘下に入ることになった)

事業部門と子会社

主な部門

ウォルト・ディズニー・カンパニーは「ビジネス・セグメント」と呼ばれる以下の4つの主要事業部署を展開している:

ウォルト・ディズニー・スタジオは映画、音楽レコーディング・レーベル、演劇作品を専門とし、パーク&リゾートはテーマパーク、クルーズ・ライン、その他旅行関連事業を受け持っている。またメディア・ネットワークはテレビ放送を担当し、コンシューマ・プロダクツ&インタラクティブ・メディアはディズニーのライセンスをもとに制作されるおもちゃ、衣類などの関連商品や、ディズニーのインターネット、モバイル、ソーシャルメディア、バーチャルワールド、コンピューターゲームなどを担当している。

主な事業

Disney Subsidiary Logos

ディズニーの主なエンターテイメント事業にはウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ, ディズニー・ミュージック・グループ、ウォルト・ディズニー・シアトリカル、ディズニーABCテレビジョン・グループラジオ・ディズニーESPNディズニー・インタラクティブディズニー・コンシューマ・プロダクツ&インタラクティブ・メディアピクサー・アニメーション・スタジオマーベル・エンターテイメントルーカスフィルムなどがある。

リゾート関連では ウォルト・ディズニー・パーク&リゾートディズニーランド・リゾートウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート東京ディズニーリゾートディズニーランド・パリユーロディズニーSCA香港ディズニーランドディズニー・バケーション・クラブディズニー・クルーズ・ラインなどの事業を展開している。

外部リンク

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