FANDOM


ウォルター・イライアス・“ウォルト”・ディズニー(Walter Elias "Walt" Disney)はアメリカの企業家、事業家、アニメーター、声優、プロデューサー、監督、作家、そしてウォルト・ディズニー・カンパニーの設立者である。アメリカのアニメーション産業の草分け的存在で、数々の新しいカートゥーン制作手法を導入したことで知られる。映画プロデューサーとしてアカデミー賞個人最多受賞の記録を持ち、ノミネーション59回、うち22回受賞している。また彼はゴールデングローブ特別功績賞とエミー賞を授与されており、複数の作品がアメリカ議会図書館の国立フィルム登録簿に保存されている。

ディズニーは1901年にシカゴで生まれ、幼い頃から絵を描くことが好きだった。彼は少年時代に美術のクラスを取り、18歳で商業イラストレーターの職を得る。その後1920年代初頭にカリフォルニアに引っ越し、兄のロイとともにディズニー・ブラザース・スタジオを立ち上げた。1928年、ディズニーは彼の最大の成功作ともいえるキャラクター、ミッキーマウスアブ・アイワークスとともに作り上げる。最初のうち、彼は自身の作品に声優としても参加した。ディズニーはスタジオの成長に伴いさまざまな挑戦を行い、映像と音声の連動や、三色法によるフルカラー作品、長編アニメ、カメラの技術的改良など、映像制作にさまざまな新手法を取り入れた。その成果は『白雪姫』(1937年)や『ファンタジア』、『ピノキオ』(ともに1940年)、『ダンボ』(1941年)、『バンビ』(1942年)などに現れ、アニメ映画産業にさらなる発展をもたらした。第二次世界大戦後も新作の発表は続き、『シンデレラ』(1950年)やアカデミー受賞作『メリー・ポピンズ』(1964年)は特に大きな反響を呼んだ。

1950年代、ディズニーはアミューズメント・パーク産業に進出し、1955年にディズニーランドを開園した。彼は資金調達のため『ウォルト・ディズニーのディズニーランド』や『ミッキーマウス・クラブ』などのTV番組も制作した。また、彼は1959年にモスクワで開かれたナショナル・エキシビジョンや1960年の冬季オリンピック、1964年のニューヨーク万博の開催にも携わっている。1965年、ディズニーは“実験的未来型コミュニティ”(EPCOT)のコンセプトに根付いた新しいテーマパーク、ウォルト・ディズニ・ワールドの実現に取り組み始めた。しかしヘビースモーカーとして知られたディズニーはEPCOTやパークの完成を見ることなく、1966年に肺がんで他界した。

ディズニーはプライベートではシャイで内向的、不安定な性格だったが、人前では外交的かつ穏やかに振る舞った。また、彼は自分の仕事に高いハードルを設ける傾向にあった。人種差別主義者で反ユダヤ的であるとの指摘もあったが、彼を個人的に知る多くの人々によって否定されている。ディズニーは家庭的愛国心の提供者と評されることもあれば、アメリカ帝国主義の典型例と名指しされることもあり、死後の評判は多岐にわたる。しかしアニメ史や合衆国文化史における重要人物であることに変わりはなく、今もなお国家の文化的アイコンとして有名である。彼が創始した映像事業は現在も受け継がれており、彼のスタジオは高水準の人気娯楽作品を作り続け、ディズニーのアミューズメントパークは世界各地で成長を続けている。

外部リンク

広告ブロッカーが検出されました。


広告収入で運営されている無料サイトWikiaでは、このたび広告ブロッカーをご利用の方向けの変更が加わりました。

広告ブロッカーが改変されている場合、Wikiaにアクセスしていただくことができなくなっています。カスタム広告ブロッカーを解除してご利用ください。